「聖霊に満たされなさい」   2010/06/06 筒井敏博師

「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」
エペソ人への手紙5章18節

 
 「御霊に満たされなさい」と、神は、全てのクリスチャンに命じておられます。神の命令は約束でもあります。全てのクリスチャンは聖霊に満たされることができます。主イエス・キリストは、十字架の血により、私たちの罪をきよめ、よみがえられ、天に昇られ栄光を受けられ、今、私たちを聖霊に満たしてくださいます。聖霊に満たされるとは、聖霊に完全に支配されることを意味します。
 
@クリスチャンの中に聖霊がおられる。
 聖書は、全てのクリスチャンの中に、聖霊がおられると伝えています。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8章9節)と言われます。罪を悔い改め、キリストを救い主と信じたクリスチャンの中に、聖霊は、ご人格者として、お住みになっています。
この事実を信じることは、大切です。しかし、聖霊を持つことと、聖霊に満たされることは、全く別のことです。

A聖霊に満たされる道は開かれています。
御霊に満たされるのは、コップに水を満たすようなことではありません。私たちの中にある自我の問題があります。今まで、私たちの自我が、心と生活の王であったのです。自我は「古い人」(ローマ6章6節)です。自我と御霊は共存されません。御霊に満たされることを求め、渇く人が直面するのは自我です。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」(ローマ7章24、25節)自我と戦い、絶望のどん底にある叫びです。しかし、主イエスは、十字架の死によって自我に勝利されたのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)
自我は、すでにキリストとともに十字架につけられ死んでしまっています。私たちは、この事実を
信じて、中にいます御霊に明け渡すなら、聖霊に満たされます。

B信仰と明け渡しの必要。
「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでくださいますように。」
(エペソ3章16、17節)私たちが全てを神に捧げるなら、聖霊は私たちの内側からきよめ、自我を十字架につけ、聖霊に満たし、栄光のキリストが妨げなくお住みくださいます。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」が、現実の経験となります。私たちは、長い人生の間、自我で生きてきた習慣が身についています。信仰によって、心のうちにキリストに住んでいただき、一歩一歩キリストに従う生涯でもあります。

「御霊に満たされなさい」と、神は命令しています。御霊に満たされることを切に求めましょう。神は、必ず、私たちを聖霊に満たしてくださいます。「あなたがたも、悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11章13節)

 

「生ける水の川」   2007/06/03 筒井敏博師

― エゼキエル書47章1〜12節、ヨハネの福音書7章37〜39節 ―

わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 』(ヨハネ7章38節)

現在のキリスト教会をみてみるとその成長は停滞しています。聖霊が氾濫していない、働いていないです。エゼキエル書をみると、そこに死海、ガリラヤ瑚、ヨルダン川の事が書いてあります。神様はわたしたちに豊かに霊と恵みを注いでくださいますが、流れ出ない、受けているだけだと死海(エゼキエル47:11)と一緒です。
『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』(1ヨハネ3章16節)
わたしたちの力でそれが出来るわけではありません。わたしたちに注がれる、流れ込んでくる聖霊の力でそれが出来るのです。自分が恵まれたい、満たされたいと、自分自身の為だけに生きていたら聖霊に満たされることはありません。キリストは人々を救うためにご自身を捧げられました。まだ沢山の救われていない魂があります。キリストのように自分を犠牲にしないで人を救うことは出来ないのです。
他者に与えていく人生にしましょう。

『イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。 (ヨハネ3章5節)
わたしたちクリスチャンは聖霊によって生まれましたが 、足の先だけ霊の水に浸かって満足したりはしないでしょうか?水に浸かっていないところは自我です。
『しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」』 (ヨハネ4章14節)
『この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。』(エゼキエル47章9節)
わたしたちは救われただけのクリスチャンではなく、喜びで溢れる、泉となりわき出るようなクリスチャンとなれるように、足先だけでなく、聖霊に全てをゆだねることが必要です。 罪を認め全てを捧げ、聖霊に満たされるよう望みましょう。 条件は難しいものではありません。

『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 (ヨハネ7章37節)
わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』(ヨハネ7章38節)

だれでも・・・信じるならば・・・。御言葉をそのまま信じ、神様に自身を明け渡しましょう。

                                       (記:森 博明)                                   

 

「切に主を知ろう」   2007/05/13 筒井敏博師

― ホセア書6:1〜3 ―

私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」』
(3節)

ホセア書では神様の愛を教えられます 。ホセアは姦淫の人を妻にめとるように言われますが、その妻(ゴメル)をお金で買い戻します。ここに神様とイスラエルの関係を見ることが出来ます。イスラエルは何度も何度も神を捨て裏切りますが、神様はそれでも愛し続けておられます。教会はキリストの花嫁(黙示録19:6-8)と言われます。夫であるキリストを愛するよりも他のもの、この世のものを愛してはいないでしょうか? 悔い改めがないとリバイバルはありません。

『「さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。
』(1節)
クリスチャンは罪を許され神の子とされていますが、心の問題はなかなか直りません。出エジプト記でイスラエルの民はエジプトから救い出されますが荒野で40年さまよい、与えられた地に入ることが出来ませんでした。肉の力では入れないのです。モーセ(律法の人)では入れなく、ヨシュア(イエス)でしか入ることが出来ないのです。
『・・・主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、・・・』新生だけでなく、悔い改めないといけません。私たちはイエス様と一緒に十字架につけられました。
『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。』(ローマ6章4節)
「主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。」
(ホセア6章2節)
キリストと共に死ぬ経験をしていき、悔い改めて新しい命に生きましょう。

私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現れ、
大雨のように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」』
(3節)
知るということはただ頭で知るというのではなく、結婚すること、親密な関係になること。私たちは主を知るうえで神様との生きた交わりが必要です。交わりを持つには語り合うこと、祈ることが必要です。形ではなく本当の思い、願いを祈りましょう。また、聖書を通してしかイエスを知ることが出来ません。イエス様自身に解き明かしてもらいましょう。ルカ24章27-29節で弟子たちは先に行こうとされるイエス様を知る、交わりを持つために無理に家に泊まらせます。神様は私たちが求めるのを待っておられるのです。
『彼らが自分の罪を認め、 
わたしの顔を慕い求めるまで、
わたしはわたしの所に戻っていよう。
彼らは苦しみながら、わたしを探し求めよう。』(ホセア5章15節)

そして私達が主を知った時大きな恵み、リバイバルで豊かに地が潤されます。

                                       (記:森 博明)                                   

 

「わたしを愛しますか」   2007/04/29 筒井敏博師

― ヨハネの福音書21:15〜19 ―

『彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」(15節)
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい、主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」(16節)
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」』(17節)

イエスは3度ペテロに「わたしを愛しますか?」と尋ねました。ペテロは以前イエスが捕らえられた時、イエスを知らないと3度否みました。 知らないと見捨てた・・・。
ペテロはその後悔い改めましたが、傷は深かったことでしょう。心の中のわだかまり。そのような自分が本当に許され、受け入れられているのか?
イエス様はペテロに、教会のリーダーとしてしっかりと立ってほしかったでしょう。
ペテロに対し、また私達に対してイエス様を愛し、イエス様を第一とすることを喜ばれると重ねて教えておられます。
1.わたしを愛しますか
これら以上に愛しますか? とイエス様は問われています。「これら」とは他の弟子たち以上にと、誰かと比較するものでは無いでしょう。金銭や仕事や地位、あるいは自分自身など、執着し愛している様々なものです。
ほかの何よりもイエスを愛するようになることが悔い改めです。
これまで愛してきたものを捨てて立ち返るように、もう一度献身の機会をくれました。
どちらか一つだけしか選べませんが、すべてを支配されているイエス様を選べば全て整えられます。
神様を愛する人を選ばれ、また求めておられます。
2.あなたがご存じです
ペテロは、愛するとはとても言えませんでした。イエス様にどこまでも付いていくと言っていましたが、イエス様を否んだからでしょう。
私のことを知っておれれるのは自分ではなくイエス様であるから。自分は信頼できない。
愛することはご存じです。 ・・・愛にはエロス(恋愛)、フィレオー(親子愛・人間的な愛)、アガペオー(神の愛)[聖書注釈を参照ください]がありますが、はじめの2回のイエス様の問いではアガペオーで聞かれていますがペテロはフィレオーで答えています。イエス様ほどの愛、神の愛ほどはもっていないからです。そのようなペテロにイエス様は3回目にフィレオーで語ってくれています。フィレオーの愛でもいいと認めてくださいました。この3度の質問を通してイエス様はペテロが否んだような時でも愛があったことをおしえてくれます。「心を痛めて」(17節)・・・私たちはイエス様のことばで心をさぐられ、悔い改めさせられます。人間的に弱く、つまづきそうな時でもイエス様を愛しましょう。
3.わたしの羊を飼いなさい
「羊を牧しなさい」「飼いなさい」とイエス様は重ねて言われますが、教会を牧会する時、または家庭で子供を育てるなかで、私たちは忍耐を試されます。思ったように進まなかったり言う事を聞かなかったり怒りそうになったり・・・。いつもイエス様を愛することが必要。一人ひとりがイエス様を仰いでいくことが必要です。また、皆がイエス様の羊です。
イエス様はいつも私たちに「わたしを愛しますか。」?と問われます。
ある時は気付き難いような細き声かもしれませんが、いつもイエス様を愛していきましょう。

                                       (記:森 博明)

 

 

「生涯に働かれるキリスト」 2007/04/22 筒井敏博師

― ヨハネの福音書21:1〜14 ―

『夜が明けそめたとき、イエスは岸辺に立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。』(4節)

ヨハネ書は20章でいったん終わっています。
『しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。』(31節)
21章は追加されたように書いてあります。
それは大切な事だから。またペテロたちを励ます為ではないでしょうか。
マタイの福音書4章19節〜20節
『イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(19節)
彼らはすぐに網を捨てて従った。』
(20節)
イエスは漁師たちを召され。その漁師たちはすぐに網を捨ててイエスの弟子として従って行きました。仕事を捨てて、イエスの後をどこまでも付いて行くと宣言しながらも、イエスが捕らえられてから逃げて行き、十字架・復活を見たにもかかわらず、捨てたはずのもとの仕事に戻っていました。
『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた、けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。』(4節)
漁師に戻った弟子たちの霊的な目は見えなくなっていました。そのような時でもイエス様の方から近づいてきてくださいます。
『イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(5節)
イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網をひきあげることができなかった。
』(6節)
弟子たちは始めの出来事(ルカ5章)を思い出したことでしょう。
『そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。』(7節)
復活の主を知ったペテロは、イエスを知った時、大漁も全てを捨てて、海に飛び込みイエスに近づいていきました。
失敗もあり、挫折もありますが、いつも主を信頼し御言葉を信頼し続ければいいのです。イエスのあとをついて行く。そのときに大きな収穫があります。
試練のなかでも、生涯の全てを知り、共にいて導かれる主を見上げましょう。
                                        (記:森 博明)

 

 


 

 


このホームページの聖書の御言葉は、日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用しています。